吐息が重なる、火を貸して。ハードボイルドの美学と、伝説の恋が幕を開ける。

ナチス占領下の仏領マルティニーク島。無関心を装う一匹狼の船長が、一人のハスキーボイスな美女と出会い、やがて運命の脱出劇へと巻き込まれていく。ヘミングウェイの原作をホークス監督が大胆にアレンジし、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールという世紀のカップルを誕生させた、クールで熱い傑作サスペンス。
脱出
To Have and Have Not
(アメリカ 1944)
[製作] ハワード・ホークス/ジャック・L・ワーナー
[監督] ハワード・ホークス
[原作] アーネスト・ヘミングウェイ
[脚本] ウィリアム・フォークナー/ジュールス・ファースマン
[撮影] シド・ヒコックス
[音楽] ホーギー・カーマイケル/ウィリアム・レイヴァ/フランツ・ワックスマン
[ジャンル] スリラー/戦争
キャスト

ハンフリー・ボガート
(ハリー・モーガン(スティーヴ))
ウォルター・ブレナン (エディ)

ローレン・バコール
(スリム(マリー・ブラウニング))
ドロレス・モラン (エレーヌ・ド・ブルザック夫人)
ホーギー・カーマイケル (クリケット)
シェルドン・レナード (コヨー)
ウォルター・ズロヴィー (ポール・ド・ブルザック)
マルセル・ダリオ (ジェラール)
ウォルター・サンド (ジョンソン)
ダン・シーモア (M・レナード)
オルド・ナディ (レナードのボディガード)
評価
公開当時は大きな賞レースに絡むことはありませんでしたが、映画史においては「最も幸福な出会い」を描いた作品として不朽の地位を築いています。ハワード・ホークス監督は、物語の筋書きよりも「男と女の間の緊張感と火花」を重視。当時19歳だったローレン・バコールの圧倒的な存在感を引き出し、ハンフリー・ボガートとの間に生まれた本物の化学反応をフィルムに焼き付けました。二人の小気味よいセリフの応酬は、ハードボイルド映画の完成形の一つと称賛されています。
あらすじ:口笛の吹き方を知ってる?
1940年、カリブ海に浮かぶマルティニーク島。釣り船の船長ハリー(ハンフリー・ボガート)は、政治には無関心を貫き、相棒のエディ(ウォルター・ブレナン)と共に静かに暮らしていた。そんなある日、彼はホテルで「スリム」と名乗る流れ者の美女マリー(ローレン・バコール)と出会う。
彼女の勝ち気な性格と孤独な魂に惹かれていくハリーだったが、やがてレジスタンスの逃亡を助ける危険な依頼を引き受けることになる。ナチス側の警察の追及が厳しさを増す中、ハリーは自分の信念と愛する女性を守るため、ついに反撃の狼煙を上げる。夜の海を舞台にした、命がけの脱走計画が動き出す。
ハリーは機転を利かせ、拘束されていたレジスタンスのリーダー夫妻を救出。さらに自分たちを監視していた警察の裏をかき、銃火器を奪って形勢を逆転させる。
最後は、ハリー、エディ、そしてマリーの三人で船に乗り込み、自由を求めて島を脱出する。マリーはピアノに合わせて腰を振りながら踊り、ハリーの元へ。二人の前には広大な海が広がり、新しい人生への航海が始まった。彼らの愛は、戦火の影を振り払うかのように、強く、そして軽やかに結ばれたのだった。
エピソード・背景
- 「ベイビー」の誕生
当時44歳のボガートと19歳のバコールは、この撮影中に恋に落ち、翌年に結婚。「ボギー&バコール」という伝説のカップルが誕生した記念すべき一作です。 - フォークナーの参加
ノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーが脚本に参加しています。ヘミングウェイの原作をフォークナーが脚色するという、文学界の巨頭二人が映画で交差した贅沢な作品です。 - 「口笛を吹いて」
バコールが去り際に言う「用があったら口笛を吹いて。吹き方は知ってるわよね?唇を合わせて、吹くだけ」というセリフは、映画史に残る最もセクシーな名言として知られています。 - バコールの「ザ・ルック」
緊張のあまり顎が震えてしまうのを隠すため、顎を引いて上目遣いで相手を睨むように見たバコールの表情は「ザ・ルック(The Look)」と呼ばれ、彼女のトレードマークになりました。 - ホーギー・カーマイケルのピアノ
名作曲家ホーギー・カーマイケルがピアニスト役で出演。彼が奏でるジャジーなメロディが、気だるい南国のホテルの雰囲気を完璧に演出しています。 - カサブランカとの比較
ボガートが白いジャケットを着て、バーを舞台にレジスタンスを助ける設定は『カサブランカ』を彷彿とさせますが、よりホークス監督らしい「プロフェッショナルの友情と男勝りなヒロイン」の物語に仕上がっています。 - シド・ヒコックスのライティング
夜のシーンや煙草の煙を美しく捉える低照度の撮影が、作品に濃厚なムードを与えています。
まとめ:作品が描いたもの
『脱出』は、ストーリーの面白さ以上に、登場人物たちが醸し出す「スタイル」に酔いしれる映画です。一匹狼の男が、自分と対等に渡り合える女を見つけ、共に危険をくぐり抜ける。そこにあるのは、言葉に頼らない信頼と、火を貸し借りする瞬間に漂う親密な空気感です。
ハワード・ホークスは、戦争という巨大な背景を使いながらも、最終的には「二人の人間がいかにして惹かれ合うか」というミクロな奇跡を捉えてみせました。本人の映画人生は、こうした娯楽の極致の中に、決して媚びない自尊心と、愛する者を信じ抜くハードボイルドな情熱を銀幕に永遠に刻みつけたものと言えるでしょう。
〔シネマ・エッセイ〕
暗い部屋の入り口で、ローレン・バコールがマッチを擦る。その火に照らされた彼女の瞳は、どんな宝石よりも鋭く、そして寂しげに光っています。ハンフリー・ボガートが彼女の投げたマッチを受け取り、無造作に煙草に火をつける。この一連の動作だけで、二人の魂が共鳴したことを観客は確信します。
シドニー・ヒコックスのカメラは、煙草の煙が揺れる部屋の隅々まで、大人の色気を染み込ませています。レオ・F・フォーブスタインの音楽とカーマイケルのピアノが、その気だるい夜の空気をさらに濃くしていきます。二人の間にあるのは、愛という言葉さえ野暮に思えるような、究極の「相性」でした。
自分たちの自由のために、軽やかに口笛を吹く。ラストのバコールの小気味よい足取りは、抑圧された世界を笑い飛ばすかのような爽快さに満ちています。映画が終わっても、私たちの耳にはあの低いハスキーボイスが、誘うような口笛と共にいつまでも心地よく響き続けているのです。

