実話に基づく冤罪の恐怖と絶望、サスペンスの巨匠ヒッチコックが描いた異色のドキュメンタリー・ノワール!

サスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督が、実際に起きた冤罪事件をベースに描いた社会派サスペンス。
真面目に生きてきた一人のミュージシャンが、誤認逮捕によって平穏な日常を奪われ、国家権力の不条理と精神的崩壊の恐怖に巻き込まれていく姿を静かなタッチで描き出す。
間違えられた男
The Wrong Man
(アメリカ 1956)
[製作] アルフレッド・ヒッチコック/ハーバート・コールマン
[監督] アルフレッド・ヒッチコック
[原作] マックスウェル・アンダーソン
[脚本] アンガス・マクファイル
[撮影] ロバート・バークス
[音楽] バーナード・ハーマン
[ジャンル] ドラマ/クライム
キャスト

ヘンリー・フォンダ
(マニー・バレストレロ)

ヴェラ・マイルズ
(ローズ・バレストレロ)
アンソニー・クエイル (フランク・オコナー)
ハロルド・ストーン (ボワーズ刑事)
ジョン・ヘルダブランド (トマシーニ)
ドリーン・ラング (アン・ジェームズ)
ノーマ・コノリー (ベティ・トッド)

アルフレッド・ヒッチコック
(ナレーター)
評価
いつものユーモアや華やかな演出を封印し、徹底して事実に基づいたリアルなドキュメンタリー手法で制作されたヒッチコック監督の異色作です。 冤罪という身近に潜む恐怖を淡々と捉えた映像美と、心理的追い詰められ方を描いた静かな演出が高く評価されています。
ジャン=リュック・ゴダールをはじめとするヌーヴェルヴァーグの映画人たちから絶大な支持を受けたことでも知られる名作と言えるでしょう。
あらすじ:誤認逮捕によって一変した日常
ニューヨークの有名クラブでベースを弾く誠実な音楽家マニー(ヘンリー・フォンダ)。彼は愛する妻ローズ(ヴェラ・マイルズ)と二人の子供とともに、つつましくも幸福な日々を送っていた。
ある日、妻の歯の治療費を工面するため、保険会社を訪れたマニー。しかし、そこの女性社員たちは、彼を「過去に2度強盗に入った男」だと勘違いしてしまう。警察に通報されたマニーは、身に覚えのない強盗容疑で突然逮捕されてしまうのだった。
手錠をかけられ、筆跡鑑定や面割りに回される中で、偶然が重なりすべての状況証拠がマニーに不利に働いていく。保釈金によってなんとか留置場から出られたものの、無実を証明するためのアリバイ作りは難航し、追い詰められた夫婦の精神状態は限界に達していく。
マニーの無実を信じる妻ローズだったが、過酷な現実と罪悪感の重圧に耐え切れず、次第に心を病んで精神病院へ入院してしまう。マニーは最愛の妻を失う恐怖と裁判の焦燥感に苛まれながらも、必死に祈りを捧げ続ける。
そんな中、裁判が進行していたある日、街のデリカテッセンで強盗を働こうとした真犯人の男が店舗の主人に取り押さえられ、逮捕される事件が発生する。その男の顔立ちや姿は、マニーと驚くほど瓜二つだった。
真犯人の逮捕によりマニーの無実がようやく証明され、冤罪の晴れた彼には晴れて自由が戻ってくる。しかし、過酷な事件の代償はあまりにも大きく、精神を病んだ妻ローズが元の健康な状態を取り戻すまでには、その後何年もの長い年月を要するのだった。
エピソード・背景
- ヒッチコック自ら本編冒頭に登場して語る異例のオープニング
いつもの映画ではカメオ出演(作品のどこかに密かに映り込むこと)でお馴染みのヒッチコック監督ですが、本作では冒頭にシルエットで登場。「これは今までのようなフィクションではなく、すべて実際に起きた事実の物語である」と観客に自ら語りかける異例の演出を行っています。 - 実話「バレストレロ事件」の忠実な映像化
1953年にニューヨークで実際に起きた冤罪事件を映画化。撮影も事件が起きた現場や、実際に使われた本物の警察署、裁判所、そして本物の精神病院を使用して行われ、徹底したリアリズムが追求されました。 - ヴェラ・マイルズが見せた壮絶な「狂気」の演劇
罪悪感と絶望から心を病んでいく妻ローズを演じたヴェラ・マイルズの迫真の演技は、観る者の胸を強く締め付けます。ヒッチコックはこの演技を絶賛し、後の『めまい』のヒロインとして彼女を構想していました(妊娠のため降板)。 - バーナード・ハーマンによる抑制されたジャズ・スコア
ヒッチコック映画の盟友バーナード・ハーマンが音楽を担当。主人公がジャズ・ミュージシャンであることに合わせ、コントラバスや金管楽器を効かせた暗く冷たい不穏なジャズ・サウンドが、迫りくる絶望感を際立たせています。 - ジャン=リュック・ゴダールらヌーヴェルヴァーグへの多大な影響
フランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家たちは本作を極めて高く評価しました。特にゴダールは長文の批評を執筆し、後の自身の映画製作におけるリアリズムやロケーション撮影の手法に多大な影響を受けたと語っています。 - 「無実の男が巻き込まれる」ヒッチコック映画の究極系
『第三の男』や『北北西に進路を取れ』など「間違えられた男」というテーマを生涯追い続けたヒッチコックですが、本作はそのテーマを娯楽としてではなく「現実に起きうる悪夢」として描いた最も切実でシリアスな作品です。
まとめ:作品が描いたもの
至って真面目に生きてきた普通の市民が、警察組織や偶然の一致という不条理によって一瞬にして地獄に突き落とされる恐怖を描いた社会派サスペンスです。
無実が証明されても一度壊れてしまった家庭や心の傷はすぐには元に戻らないという冷酷な現実を提示し、法制度の死角と冤罪の悲劇を静かに、そして鋭く告発した傑作と言えるでしょう。
〔シネマ・エッセイ〕
深夜のクラブで響くベースの低音と、寒々としたニューヨークの路上。スクリーンを支配するのは、日常のすぐ裏側にぽっかりと開いた深い闇の気配です。
この作品が与える真の恐怖は、怪物が襲ってくることではなく、身に覚えのない手錠の冷たさや、無機質な鉄格子が閉まる音のリアルさにあります。正義を信じながらも、じわじわと理性を削り取られていく主人公と、恐怖のあまり心を閉ざしてしまう妻の姿。二人の幸福が崩れていく過程には、言葉にならない絶望が漂っています。
奇跡的に真犯人が捕まり、無実が証明されたあとに訪れるラストシーン。喜びのファンファーレはなく、精神病院の静寂の中で佇む妻の冷たい瞳が残るのみです。取り戻した自由の陰に刻まれた消えない傷跡が、観る者の心にいつまでも重く残ります。

