ヴィクター・フレミング
Victor Fleming
1889年2月23日、アメリカ・カリフォルニア生まれ。
1949年1月6日、アメリカ・アリゾナで死去(心不全)。享年59歳。
27歳の頃から撮影監督を勤め、30歳の時監督デビュー。
ヴィクター・フレミングは、アメリカの映画監督であり、ハリウッド黄金時代における多くの名作を手掛けたことで知られる。彼は特に、『オズの魔法使』(1939年)と『風と共に去りぬ』(1939年)の監督として広く認知されている。
カリフォルニア州パサデナに生まれたフレミングは、若い頃からメカニックやカメラマンとして映画業界に関わるようになった。第一次世界大戦中には、アメリカ陸軍の航空隊で撮影技術を活かし、軍事用の映像制作に従事した。この経験が後に彼の映画作りにも影響を与え、ダイナミックで技術的に優れた作品を生み出す原動力となった。
戦後、フレミングはハリウッドに戻り、サイレント映画のカメラマンや助監督としてキャリアを積み重ねた。その後、1920年代に監督としてデビューし、「The Way of All Flesh」(1927年)や「Red Dust」(1932年)など、さまざまなジャンルで手腕を発揮するようになった。
1920年代には、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約し、様々なジャンルの映画を監督した。
1930年代には、フレミングの名声はさらに高まり、1932年の『紅塵』ではクラーク・ゲーブルとジーン・ハーロウを主演に迎え、ヒットを記録した。
1939年はフレミングにとって特別な年であり、彼は映画史に残る二大傑作を手掛けた。
『オズの魔法使』では、ジュディ・ガーランドが主演するドロシーの冒険物語を色鮮やかに描き、今なお愛され続けるファンタジー映画となった。
また、『風と共に去りぬ』では、ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが主演し、南北戦争とその後のアメリカ南部を舞台にした壮大なドラマを描いた。この作品はアカデミー賞で8部門を受賞し、フレミング自身も監督賞を受賞した。
その後も彼は「Dr. Jekyll and Mr. Hyde」(1941年)や「A Guy Named Joe」(1943年)などを手掛けた。しかし、体調の悪化により1940年代後半には映画制作から徐々に距離を置くようになった。1949年、ヴィクター・フレミングは心臓発作により59歳で亡くなった。
「オズの魔法使い」の撮影中、ジュディ・ガーランドの演技に対して厳しくも温かい指導を行い、彼女の才能を引き出したと言われている。
フレミングは技術的革新を好み、映画の視覚効果や色彩技術に強い関心を持っていた。
彼の作品はアクションや冒険に強い影響を受けており、そのダイナミックなスタイルが観客に愛され続けた。
フレミングはハリウッドの社交界で非常に人気があり、多くの女優や著名人との交友関係が噂されていた。特に、女優インゲリッド・バーグマンやキャサリン・ヘプバーンとのロマンスの噂が浮上したことがあるが、詳細は明らかにされていない。
また、「風と共に去りぬ」の撮影中、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックとの激しい意見の対立が何度も報じられた。セルズニックは完璧主義者であり、フレミングを含む監督陣に過剰なプレッシャーをかけていたと言われている。この衝突は映画の制作が非常に困難だった要因の一つとして語られている。
フレミングの作品は、その視覚的な美しさと感情豊かな物語で広く評価され、彼の監督としての才能は映画史に深く刻まれている。
[監督作品]
1919 30歳
暗雲動く時 When the Clouds Roll By
1924 35歳
海の掟 Code of the Sea
1925 36歳
絶壁に闘ふ A Son of His Father
1927 38歳
肉体の道 The Way of All Fresh
フラ Hula
1929 40歳
ヴァージニアン The Virginian
1930 41歳
泥人形 Common Clay
1931 42歳
ダグラスの世界一周 Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks
1932 43歳
1933 44歳
爆弾の頬紅 Bombshell
ホワイト・シスター The White Sister
1934 45歳
宝島 Treasure Island
1937 48歳
我は海の子 Captains Courageous
1938 49歳
テスト・パイロット Test Pilot
1939 50歳
1941 52歳
ジキル博士とハイド氏 Dr. Jekyll and Mr. Hyde
1945 56歳
冒険 Adventure
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